痔に悩んだ偉人たち。
日本人編 明治以降
乃木 希典
明治時代を代表する軍人、乃木大将が先に崩御した明治天皇の後を追い、夫人とともに自殺して果 (は)てたのは大正元年9月13日のことでした。
栄光と賞賛に包まれ、威厳と温容にみちた乃木大将ですが、左目は失明に近く、足には弾片が残り、リウマチや中耳炎など多くの病気を抱えていました。特に壮年からは高度の脱肛に悩み、いつも白木綿(しろもめん)を肩からかけて脱肛を圧定していたそうです。
そして歴史的事件の当日にも…。
乃木大将の遺体の様子は詳細に残され、その記録には、「臀部(でんぶ)ニハ肛門ニ当テタル一物(いちもつ)アリ。……蓋(けだ)シ宿痾(しゅくあ)ノ脱肛ヲ防クノ用意ナルヘシ」とあります。
乃木大将は死後の自分の肛門にも細心の注意を払い、周到な処置を行っていたのでした。
参考文献:立川昭二「病いの人間史」新潮社
夏目 漱石
「…僕の手術は乃木大将の自殺と同じ位の苦しみあるものと御承知ありて、崇高なる御同情を賜はり度候」
これは、かの文豪夏目漱石が痔瘻の手術で入院中に、友人に当てた手紙の一節です。痔に苦しむ漱石の心情がよく察せられる一節ですね。
ちなみに文中の「乃木大将」は、漱石が手術を受ける16日前に自殺した当時の陸軍大将乃木希典のことで、漱石と同じように痔に悩んでいました。
漱石の未完の大作、「明暗」をお読みになりましたか?男女の愛憎と葛藤を描いたこの作品は、主人公が痔を治療しているところからはじまります。
同じような内容が漱石の日記にあり、自身の苦痛と治療の経験をそのまま生かした書きだしとなっています。痔の痛みは漱石の日常に相当なインパクトを与えていたようです。
参考文献:立川昭二「明治医事往来」新潮社
正岡 子規
「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」
有名なこの句は明治の代表的歌人である正岡子規が奈良を旅した時、法隆寺門前の茶店に腰を掛けて詠んだもの。
子規は奈良で美しい女中に恋心を抱きました。
彼女に柿をむいてもらい、柿を食べながらうっとりとしているとボーンという鐘の音。ここからこの句が生まれたといわれています。
句を詠む心とは裏腹に、じつは子規がこの句を詠んだとき、痔ろうの痛みで歩くのも苦痛だったようです。
その半年後にはさらに悪化し、ほとんど歩くことができない状態でした。
「僕も男だから直様(すぐさま)入院して切るなら切って見ろと尻をまくるつもりに候」と夏目漱石宛に手紙を書いています。
なかなか手術を受ける覚悟のできなかったようですが、あまりの激痛に耐え兼ねて決心をしたのでしょう。
参考文献:立川昭二「病いの人間史」新潮社
野口 英世
野口英世は世界的な医学者としての業績に加え、努力、忍耐、不屈の人として、戦前戦後を通し、もっとも著名な伝記的人物の一人です。
そんな忍耐の人物にもがまんできない程つらいことがありました。
「実は小生昨年十月頃より痔をなやみ夜分も安眠を不得(えず)、月を追うて重り行く傾向有之候。(けいこうありのそうろう)」
これは、英世が28才の時、恩師にあてた手紙に書いたものです。
さらに英世は、夜眠れないため頭がはっきりせず、“万事うるさく相成申候(あいなりもうしそうろう)”と書き、一日も早く手術を受けたいとしたためています。
しかしその後の手紙にも痔の苦しさを訴えていることから、手術はせずにだましだましおさえていたようです。
参考文献:立川昭二「病いの人間史」新潮社